最も幸せなお金の使い方は、モノではなく、経験への自己投資だ。これは、心理学者が長年にわたって提唱してきたことである。2019年現在、人々は財力をひけらかすための誇示的消費には楽しさを見出さなくなりつつあり、それよりも記憶に残るような(かつInstagramで共有できるような)本物の体験を渇望し、その時間を大切にする傾向にある。日本はエクスペリエンス・エコノミーの時代を迎えている。
ザッハートルテはただのチョコレートケーキではなく、共有すべき体験である
このことを実感した出来事がある。ある日、筆者はウィーンにあるホテル・ザッハーのカフェにいた。カフェは、日本人を含むアジア系旅行客で賑わっていた。筆者を含め、旅行客の多くは有名なザッハートルテを頼むと、すぐさまInstagramに写真をアップしていた。ザッハートルテと共に自身の姿もスマートフォンに収めており、まるでケーキを食べるという体験が現実世界とソーシャルメディアの2つの世界で存在しているように思えた。
日本の若年層はブランド品よりも経験に重きを置いている
団塊の世代や団塊ジュニア世代の全盛期は、苦労して稼いだお金を、車やデザイナーズバッグなどのブランド品やワイキキの有名高級ホテルなどでのショートステイに費やすことが粋だとされていた。一方で、今の日本の若者は違った考え方を持っており、人生経験を重視する傾向にある。雇用市場が売り手市場であり、物質的な豊かさが増加している時代だからこそ、そうした立場を享受できているとも言える。
経済成長に伴い、基本的欲求を満たすことが容易になるにつれ、消費者の大半は要求水準を高めるようになった。原材料を購入し、ものづくりを行うことが成功とされた農耕時代はとうの昔に終わりを告げた。人々の要求水準は、ただ高品質の既製品を買えることだけでは満足できないレベルへと高まりつつある。日本は、他の先進国と同様に、ここ数十年の間にサービス経済が定着した国の一つである
サービス経済の行く末であるエクスペリエンス・エコノミー
たとえば、一昔前までは、日本の家庭では年末になると魚や米、野菜などを調達し、重箱に詰めた「おせち」と呼ばれる伝統的な正月料理を、時間をかけて丁寧に手作りする文化があった。経済が裕福になるにつれ、スーパーで売られているおせちセットや単品を買ってきて、年が明ける前に重箱に詰め替えるという方法が取られるようになった。現在では、すでに重箱に詰められている状態のおせちセットを予約注文し、配達を依頼する家庭も増えている。正月が終われば、食べ終わった重箱は引き取ってもらえる。
マーケターの視点から見ても、経済の発展に伴い、消費者への利便性が向上しただけでなく、利福も大きくなっていることがわかる。確固とした仕事至上主義や長時間労働、短期休暇が当たり前だった日本では、利便性を受け入れて、余暇時間を伸長させる方向へと変わりつつある。若い世代は親世代よりも可処分所得が多く、時間外労働を禁止する制度も整備されるようになったため、自由に使える時間が豊富にあり、より多くの特権を与えられている。彼らは、増えた余暇時間を有意義な経験に費やしたいと強く願っているのである。
消費者の要求水準が過去最高レベルに達した令和世代のエクスペリエンス・エコノミーのはじまりである。
エクスペリエンス・エコノミーは既存産業を破壊する
エクスペリエンス・エコノミーが既存産業に与える影響を見ていきたい。高級ブランドを例に挙げると、モエヘネシー・ルイヴィトンは、かつて日本では宗教的とも言えるようなファンを集めていたが、現在は消費者の要求水準がまだ低い段階にある中国市場に焦点を切り替えている。車についても、80年代や90年代の日本人は、車が生きがいのようなところがあった。生活の中心には常に車があり、高級車を所有しているということが、直接的にセルフイメージや自尊心につながっていた。しかし現代では、もちろんゼロではないだろうが、高級車を所有する20代というペルソナを想像するのは難しい。彼らの人生は車ではなく、スマートフォンの中に存在している。彼らのセルフイメージはデジタルデバイスの中に大切に保管され、見聞き体験したすべてはカタログ化されているのである。
日本の高級市場は終わりを迎えたわけではなく、変化している
高級市場の未来(および日本の消費者主義の未来)は、耐久消費財市場よりもさらに経験に依存したものになるだろう。これは、外食、エンターテインメント、旅行、レジャーなどの産業が今後の日本を担っていくことを意味する。
当社が行ってきた調査結果からも、日本のティーンエイジャーでさえも経験を重視し、モノよりも経験にお金を使う傾向が見られている。勉強や均一な社会に適合することへの大きなプレッシャーから解放されたいと願っているのである。デジタル化が浸透しきっているこの年代においては、カラオケや映画、テーマパーク、ゲームセンターが外遊びの代表格として好まれている。20代もデジタル化が進んだ世代であり、アイデンティティの統合が進むにつれ、テーマパークやカラオケ、ゲームセンター、ナイトライフ、スタジアムでのスポーツ観戦などにお金を費やすことを好む傾向にある。
エクスペリエンス・エコノミーの広告塔としての旅行産業
経験を重視する産業と聞いてまず思い浮かぶのが旅行産業である。令和世代の親や祖父母世代が日本全国のプリンスホテルやシェラトン・ワイキキなどでの休暇を好むのに対し、最近の若者世代は同僚に羨ましがられるような場所やホテルに滞在することよりも、個人的な経験の充実を求めて旅先を選んでいる。海外旅行産業の進化は著しく、国内旅行産業が提供するようなパッケージプランでは間に合わなくなってきている。LCC(格安航空会社)やOTA(オンライン・トラベル・エージェント)にすぐにアクセスできる環境において、日本の20代は自身の好みに合わせて自由に旅のプランを決めている。旅はスマートフォンから始まり、旅の思い出もスマートフォンで完結するというわけである。
人気のある旅先のガイドブックを求めて本屋に出かける必要はなく、オンラインでインフルエンサーを見つけ出し、最も楽しい体験や最もインスタ映えする瞬間はどのようなものかを探し出せばいい。Instagramはニュージーランドでのバンジージャンプや南アフリカでのサーフィンなどの体験を記念に残しておくのに格好の場所である。男性旅行者よりも女性旅行者の方が多いという明確な差があるが、18~29歳の年齢層における旅行者は増加傾向にあり、彼らが使用しているチャネルにアクセスできれば、莫大なビジネス機会を生み出すことも十分に可能だ。
家庭用エンターテインメントを通した日常生活におけるエクスペリエンス・エコノミー
外出先や遠く離れた場所に限らず、エクスペリエンス・エコノミーは自宅やスマートフォンの中でも重要な役割を担っている。映画やスポーツ、ドキュメンタリーなどを配信する動画ストリーミングサービス産業やテレビゲーム産業は、デジタル体験に没入したいという人々の欲求から大きな利益を生み出している。両方とも、日本では成長市場である。
食べている物の写真を撮る行為はアジアで最初に火がつき、世界中の人々の食事習慣に大きな革命をもたらした。「イーターテイメント」と呼ばれる考え方は、今後の食品および外食産業に欠かせないものになっていくだろう。日本の消費者の心を掴むためには、ただ食品や食事を提供するだけでなく、それを含めた全体的な体験を提供することが重要になってくる。
日本のエクスペリエンス・エコノミーの根幹を担うテーマレストランと「イーターテイメント」
テーマレストランは以前から日本で人気を博し、東京にも不思議の国のアリスやヴァンパイア、ロボットなどを題材にしたレストランが数多く存在する。一度でも訪れたことがある人は皆、提供される料理の質は決して高くはないが、週末は長蛇の列で、事前予約が必須であると口を揃えて言うだろう。メイドカフェや執事カフェを訪れる客は誰も料理の質を求めていない。「ご主人様」または「お嬢様」と呼ばれることによる「萌え体験」を求めているのである。当社が2017年に全国1000名の日本人に対して行った意識調査によると、10代や20代の若者は、40代や50代に比べて外食の頻度が非常に高いことがわかっている。このデータは、若年層におけるエンターテインメント全般に費やす傾向の高まりを反映した結果であると言えるだろう。
カジノを含む統合型リゾートの開業は、日本のエクスペリエンス・エコノミー発展のステップの一つにすぎない
2020年代後半に予定されている日本発の統合型リゾートの開業をもって、日本はエクスペリエンス・エコノミーの発展に向けた大きな一歩を踏み出すことになるだろう。統合型リゾートは、カジノだけでなく、リゾートやショッピングモール、レストラン、会議施設などを統合した本格的なエンターテインメント空間の提供を目指している。ギャンブルの合法化に対して強い反対意見があるものの、パチンコ文化がなくならない限りは、エクスペリエンス・エコノミーを活性化させ得る統合型リゾートという考え方を、社会が認めざるを得なくなるだろう。
2020年代後半のエクスペリエンス・エコノミーの概観は、日本をはじめ全世界にアート旋風を巻き起こしているチームラボによる没入型デジタル空間への取り組みから想像ができるだろう。レジャーやエンターテインメント産業における没入型デジタル体験の展開はまだ始まったばかりである。日本はこの新たな取り組みをリードしていく先進国になっていくだろう。
体験の提供者として世界をリードしていく日本
レジャー産業における体験創出は、日本経済の先行きを左右するだけでなく、訪日外国人にとっても大きな意味を持つ。当社では、最近オーストラリアから来たある企業をもてなす機会があり、東京の定番観光スポットや学びの場所だけでなく、上述のチームラボにも案内した。日本は、今後も革新的な体験の提供者としての役割を担い、一般観光客だけでなく、当社のクライアントのような、学びと体験の機会を模索している高価値のビジネストラベラーからも、大きな経済的利益を享受していくことだろう。
新しい体験が生み出される実験室としての日本市場
日本のエクスペリエンス・エコノミーで成功を収めるためには、消費者が価値を感じていることや、どのようなことに時間を使っているのかについて、常に最新情報を得ておく必要がある。大まかな傾向としては、この記事で述べたことは実状ではあるが、市場は非常に移ろいやすく、ほんの小さなトレンドが大きく変容する可能性があるため、常に世の中の動きに注意を払っておくことが重要だ。今まで考えたこともなかったような発想が、新たな形やエンターテインメント体験の創出につながることも十分に有り得る。この市場での成功が望める革新的な体験のアイデアがあれば、日本市場を実験台として利用してみてはいかがだろうか。

