もう前世紀のことになるが、筆者がオーストラリアのニューサウスウェールズ大学でマーケティングを学んでいた頃、市場調査の概念に正しく触れる機会に恵まれた。学位を取得するためには、市場調査入門コースを修了する必要があった。そのため、事業計画を策定するプロセスにおいて、さまざまな種類の市場調査を行う必要性について疑ったことがなかった。とは言え、当時は市場調査の「但し書き」のような部分に対してやや懐疑的であったように思う。理論的には正しいと思えるアイデアを現実に落とし込んでいくためにはどうすればいいのか、マーケティングの技法にサイエンスを取り込むための手段を思案していた。これは、多くのマーケターやビジネスパーソンが抱く共通の疑念であると思う。そこで、この記事では、市場調査を行うべきでないと主張する主な理由について取り上げたい。すべて説得力のある理由ではあるが、筆者がそれでも市場調査を行うべきだと信じる理由も合わせて、議論を進めていきたい。
正式な市場調査は高額である
当社が提供している最も基本的なデスクリサーチは、最低でも1万ドル(120万円)ほどかかる。フォーカスグループプロジェクトになると、最低でも3万ドル(370万円)が必要になり、大規模な定量調査になると100万ドル(1.2億円)を超えるものもある。そのため、すべての企業が市場調査を行えるわけではない。スタートアップ企業については特にそうだろう。もちろん、これが安価であると言うつもりはない。ただ、市場調査にかかる金額は、そのプロジェクトの結果から導き出される意思決定の重要度と投資額の規模によって論理的に決められているということを覚えておいても損はないだろう。たとえば、500万ドル(6億円)の広告キャンペーンの実施を検討しているとしたら、そのキャンペーンが成功するかどうかを評価するために5万ドル(600万円)を費やすことを安いと思うか、高いと思うかということだ。
スタートアップ企業や小規模事業者であっても、調査会社を通さず非公式に市場調査を行える方法がある。筆者が長年講師を務めているJMECでは、事業計画策定支援プログラムを提供しており、毎年参加者にそれぞれのターゲットマーケットにおける事業計画の策定に向けた情報収集と調査の実施を課題として課している。プログラムを通して市場調査を無料で行うことができるのである。自身で調査を行うことに興味がある方は、ぜひ検討していただきたい。
市場調査は行動を鈍化させる
残念なことに、市場調査を行うことで、市場における行動を鈍化させてしまうということは事実だ。短期のプロジェクトでも結果が出るまでには最低一ヶ月は必要であるし、対面調査となるとそれ以上に時間がかかる。確かに、市場調査のプロセスには時間の無駄と思えるような非効率性が数多く潜んでいる。その原因は、調査会社の柔軟性に欠けた対応にあるのかもしれないし、顧客の社内コミュニケーションの鈍化や時間のかかる発注プロセスが原因かもしれない。近年では、Zappiなど、質の高い消費者アンケート調査を素早く実施できることを売りにしている調査会社もいくつか存在する。
しかし一方で、市場調査を通して数多くの学びがあることも忘れてはならない。その学びには時間が必要なこともある。調査が長期に渡れば、反復的思考を高めることになる。その結果、ビジネスが抱える真のニーズを発掘することでき、それらに対応した調査結果を得ることができる。調査の予測や目的がプロジェクトを進めるにつれて変化していくことはよくあることだ。ただ、ビジネスが抱える課題の解決には十分な時間が必要だったということに過ぎない。時には、時間以外に解決策がないというケースもあるのだ。
市場調査はプロセス重視で厳格すぎる調査手法に頼りがちである
市場調査はプロセス重視であり、十分に実証済みのテンプレート化された調査手法に頼りきりになることがある。調査会社も顧客も、失敗を責められたくないという気持ちから、どうしても確立されたものに頼りがちになる。プロセスや調査手法を信頼しすぎると、俊敏性の妨げになったり、新しいものを発見する力が失われてしまう可能性がある。しかし同時に、調査手法が安定したものでなければ、調査結果の信頼性が損なわれてしまう。新しい手法が使用されるとなると、結果の解釈方法や全体像の中での捉え方がわからないケースも出てくるだろう。信憑性が疑わしい調査結果に基づいた多額の投資や戦略の変更に対して取締役会が賛成を示すことはまずないだろう。
とは言え、顧客が採用している評価基準は非常に限定的であり、ブランドの新しい側面を切り開くうえでの妨げとなることがあるのもまた事実である。たとえば広告効果テストは、その手法から、広告内容の評価にバイアスがかかりやすいと言われている。広告代理店から、広告効果テストを切り抜ける方法を提案されたというケースも幾度か見てきたが、それが本当であるかは疑わしい。たとえ可能であったとしても、それが広告全体の質を上げることにはつながらないだろう。筆者自身は評価測定の効果を信頼しているが、お決まりの方程式に頼り過ぎたり、型にはまり過ぎたりしないよう、常に気をつけておくことが必要だ。
また、どんなに分析や解釈を繰り返しても、アンケート調査からは同じような結果しか得られず、新しい発見がないという声も多く聞く。しかし、多くの場合、同じ手法(多くはアンケート調査)をただ繰り返しているにすぎない。調査とはこうであるべきというルールに縛られているのである。評価測定は後回しでもいい。まずは自由な発想で探索型リサーチを行い、ブレインストーミングと組み合わせることで、新たな側面を切り開く重要なヒントが生み出されるのである。
答えをわかったつもりになっている
消費者の考えていることを理解していると信じ込んでいる企業に対して、調査の必要性を説得するのは不可能であるということは、筆者自身の苦い経験から学んだ教訓である。確かに、優秀なマーケターは、消費者の立場になって物事を考える能力に長けており、消費者心理を深く理解していると言える。しかし、社内のステークホルダーが抱く消費者像を聞いてみると、実際の消費者像とかけ離れているというケースは珍しいことではない。
たとえ5年前の消費者像を正確に理解していたとしても、それが現状に当てはまるとは限らない。コロナ禍の影響で、さまざまな分野において消費者の優先事項やニーズに変化が現れた。2年前には存在していたマーケットセグメントが、「ニューノーマル」の台頭で、全く意味をなさないものになってしまった。こうした変化に気づくためには、定性調査のように、実際に消費者と対話をする機会を設けることがベストである。
調査結果が影響力のある意見と矛盾することがある
筆者自身、これまで幾度となく望ましくない結果を報告せざるを得ない立場に置かれたことがある。正直言って、受け入れがたい調査結果を顧客の前で報告することには多大な勇気がいる。リサーチャーが自身の責務を全うするためには、目に見える、または見えない形でのさまざまな重圧と戦わなくてはならない。「調査とは、街灯の柱と一緒に酒を飲むようなものであり、照明というより、支え棒としてのほうが活用されている」という古い格言は、残念なことにその通りであると言わざるを得ない。
しかし、市場調査は、想定した結果が得られない時にこそ、その真価を発揮する。そういう時にこそ、進歩の道が開かれるのである。戦略が意図していた通りに進んでいないことを知ることは、企業にとって大きな痛手になるかもしれない。ただ、厳しい言い方になるが、一度行動方針を決めたのであれば、リサーチャーにできることは何もない。
調査結果が道を惑わすこともある
一つのことだけに打ち込む姿勢は素晴らしいものだ。ビジネスにおいても人生においても、成功の鍵となり得る考え方だ。しかし、市場調査の世界においては、ビジネスが抱えている問題や機会に対してさまざまな視点を持つことを推奨されるばかりか、そうせざるを得ない状況に追い込まれることがある。ビジネスが課題であると捉えていることを、消費者が共有しているとは限らない。別の視点から消費者が抱えている問題点を探ることで、新たな素晴らしい商品案が生み出されたというケースも数多く見てきている。ターゲットマーケットの所感について第三者の意見を聞くことで、プロジェクトのコントロール力や戦略的方向性が失われてしまうことを恐れるのは自然なことだ。そもそも、リサーチャーによるバイアスがないとも言い切れない。
もちろんバイアスは存在する。どんなにプロフェッショナルな姿勢でプロジェクトに取り組んだとしても、リサーチャーも人間である限り、結果の提示方法や解釈に無意識の先入観が入ってしまうことはある。顧客自身がプロジェクトに積極的に関与することが必要不可欠であるのはそのためだ。顧客の主要メンバーに対して調査結果を報告する際には、特段新しい報告がないというような状態にしておくべきだと考える。また、結果や推測を顧客と共に立てていくことにも大きなメリットがある。優秀な顧客は、積極的に仮説を立てたり、時には疑念を提起することができる。消費者とリサーチャー、顧客が協力して初めて、真に有用なインサイトが得られるのである。
結論として、市場調査を行わないもっともな理由はいくつも挙げられるが、それらに対して筆者ができる最大の反論は経験に基づくものである。25年以上に渡りこの業界に携わってきた中で、幅広い分野のさまざまな企業とプロジェクトを共にしてきた。これらの経験を通して、なぜ成功する企業と失敗する企業があるのか、明確に見極めることができるようになった。筆者の経験上、市場調査を行い、結果が示す通りの行動を取ったのにも関わらず、成功を収めていない企業というのは非常に稀である。成功には、消費者が発するシグナルを検知し、それらを元にアイデアをまとめ上げ、主観的な希望ではなく、客観的に事実を受け止めることが必要不可欠だ。人間である限り、一筋縄ではいかない仕事ではあるが、その分得られるものも大きい。

